2019年3月17日 (日)

「生き残るのは変化に対応できるもの by ダーウィン」の誤解 Vol.1

(この記事は読むのに7、8分かかります)

昨年秋に二つの保険会社の講演を聞くこととなった。

一つ目の講演では、最後の締めのページに、

 

「最も強い者が生き残るのではなく

 

最も賢い者が生き残るのでもない。

 

唯一生き残るのは変化できる者である。

 

チャールズ・ダーウィン」

とあった。

いかにも格言、箴言(しんげん)、アフォリズムとしてありそうなフレーズである。

 

講演の内容は、保険代理店も新しいデジタルテクノロジーを用いて、AIの時代、デジタル世代に対応しなければならない、そのための施策を保険会社は用意していくので、それに乗って代理業を進めてほしい」、というもの。基本的には、危機感をあおって保険会社の思う方向へ代理店を誘導していくのが目的の講演だった。

 

つまり、チャールズ・ダーウィンという有名な生物学者の名を借りて、君たち、変わりなさい。で、どの方向に変わるかというと、保険会社の言う方向に、という図式だ。

 

 

まあ、保険会社と保険代理店の関係は、委任・受任関係、本人・代理人関係であることからすると、ある程度は受け入れる思いはあるのだが、なにも重々しくダーウィンで締めなくてもな、という印象は受けた。

 

 

そのわずか二か月後、別の保険会社の講演を聞く機会を得た。講演の紹介チラシを読むと、講師はブルトーザーのような馬力のある方で、ぼやぼやした代理店に活をいれる熱血教師のような方のようである。

 

新たな施策と保険商品を提供するから、講習を受けてぜひ当社の保険募集の代理も受任し、商品を扱ってくれないか?というもので、保険会社の対代理店営業としてはよくあるパターン。

 

チラシを読んで内容がだいたい想像がついてしまったので、一度お断りしたのだが、これも経験、すこしは文化人類学的に得るものもあるかもしれない、と思ったので出席することにした。

 

するとこちらの講演も、冒頭にダーウィンを持ってきるではないか。まったく同じ格言、フレーズである。そう、「唯一生き残るのはなんちゃらかんちゃら by ダーウィン」である。

 

 

 

偶然とはいえ、別の保険会社の二つの講演を聞いて、チャールズ・ダーウィンのアフォリズムが二度とも引用されたのである。

こちらの講演の内容も、まずは保険代理業を取り巻く環境の変化と代理店が抱えるであろう危機をあおり、私の講演を聞いたからにはぜひ私の言うとおりに変わりましょう、そうすれば生き残れますよ、ということだ。

 

 

 

どうやら、保険代理店を保険会社が変化させたい、説得させたい、というときに、いたるところでチャールズ・ダーウィンが登場しているようである。

 

 

 

ここまで言われたら、私だって興味を持ってしまうではないか。

講演の内容に、ではなく、ダーウィンが本当にそういうことを言ったのか?の方である。

 

 

 

 

さっそくチャールズ・ダーウィンの「種の起源 上」を通販サイトでクリックした。翌日には郵便受けに入っていた。

私はその時点で積読(つんどく)してある本が何冊もあったので、「種の起源 上」を読む順番がなかなかまわってこない。哲学書と似てむずかしいこともあり、ゆっくりと読み進む。黄色いマーカーで線を引いていく。

しかし上巻には例の格言・アフォリズムはどこにも出てこなかった。

 

それどころか、チャールズ・ダーウィンは、まとめるとこう言っていたのである。

 

 

 

 

「変種の発生はたまたまのできごとであり、

 

数千世代から数万世代というとてつもなく長い時間を要する。

 

いくつもの変種が発生したなかで、

 

たまたまその時の環境に合ったものだけが生き残っていく。

 

これを自然の選択という」

 

うーむ。

 

これだと、がんばって環境変化に合わせ、努力して変わったものが生き残るわけでない、ということではないか。

「偶然だ!」か。

格言として使えないぞ。こりゃ困ったぞ!

 

 

 

 

上巻を読み切ったが、書評を見ると岩波の八杉訳よりも光文社の渡辺訳のほうがわかりやすいということなので、下巻は光文社を買ってみた。

 

そしてまた、上記の格言を探してみる。

 

ない。またもやどこにもない。

 

 

下巻では、ダーウィンの生きた1800年代半ばのいまだキリスト教の創造説、つまりいまいる動植物はそうあるべくしてこの世にいきなり誕生した、という説を人々が信じている時代だった。その固定観念を壊そう、というダーウィンの意思がよりはっきりとにじみ出る文章が書かれていた。

当時は、ツルゲーネフなどのロシア文学、ニーチェに代表されるドイツ哲学など、あげて時代の固定観念打破に動いている時期。ダーウィンの「種の起源」は、生物学の側からのニヒリズム、権力者・聖職者たちの作り上げた虚構破壊への、ダーウィンなりの援護射撃だったようにも感じた。

 

 

 

さて、岩波版の八杉の「自然選択」という訳は、光文社版の渡辺によって「自然淘汰」という言葉に訳されていた。ちなみに元の英語は、Natural Selectionである。

淘汰、という言葉が入ってくると、たまたまにせよ強い立場になったものが弱い者を叩いて生き残る、というニュアンスが入ってくる。

 

すると、例の格言の中のフレーズ、

「最も強い者が生き残るのではなく」

と矛盾する。

結局強いやつが生き残るのかよと。

 

 

 

 

ダーウィンは、下巻でこう書いている。

「「生存闘争」が不断に繰り返される中で、

 

有利な固体や品種が保存されることこそ、

 

最も強力にして絶えず作用する手段である」

 

 

 

闘争がなされる中で、最も強い者が保存されるとまでは書いていない。有利な、と書かれている。上下巻を通して、強いものが生き残るとは書いていなかった。

 

 

有利、という表現を選んだのは、偶然性を出したかったのだろう。また最も強い者がその強さゆえに滅びることもあるはずだ。人間による環境破壊や原子力エネルギー利用の失敗はその怖さもはらむ。

 

 

 

 

さて、下巻まで読み切ったところで、まとめてみる。

チャールズ・ダーウィンは、例の格言は書いていなかった。彼が言いたかったのは、

「たまたま変化したものがその時の環境にたまたま合っていた結果、生き残ってきた」

 

そして彼が隠していた真の目的は、

「キリスト教聖職者の語ってきたアダムとイブの創造説を打破し、権力者の言う価値観に疑問を呈し、科学に根差した思考ををあまねく世に広げる」

というものであろう。

 

 

 

 

講演、セミナーの講師をやる人は、決してこのダーウィンの言っていない格言をさもダーウィンが言ったように自分の話の説得力の不足を補うために使ってはならない。

いい言葉だと思って使うのなら、

いや実際にいい言葉なのであるが、

「by ダーウィン」

ではなく、

「私はそう思います」

と言って使うべきである。

 

 

 

Vol.2で、どうやってこの格言がダーウィンが言ったように伝わったのか、を解き明かします。

 

2019年1月 2日 (水)

上尾の地名の由来 vol.2

わが町、埼玉県上尾(あげお)の地名の由来、vol2です。

前回は上尾の地名の由来 vol.1なるブログ記事を書きました。長野県の信更(しんこう)町というところには上尾という地名があり、読み方はアゲオ、上尾城という城跡まであったのです。

埼玉県の上尾と、長野県信更町の上尾の共通点は、

「尾根の先端部の上の平らなところ」

としました。

自分で書いておきながらいまひとつ納得がいかなかったのが、「尾根の先端部の上の平らなところ」は日本全国いっぱいあるのに、上尾、と呼ぶのが二か所しかないこと。あきらかにおかしい。

最近、縄文語(アイヌ語)に興味を持ち、もしかしたら日本の地名は縄文時代につけられて、それがすこしなまって、現代でも使われているのでは?と思うようになりました。

二冊の本を、参考図書として買いました。

「古代の謎を解く 縄文の言葉」 大木紀通著 

そしてこの本が頻繁に参照していた、

「地名アイヌ語小辞典」 知里真志保(ちりましほ)著

です。

今回、上尾の地名の由来に自信が持てました。前回と似ていますが、ちょっと違います。

さっそく本題に入ります。

縄文語に

「アカ」

という言葉がありました。意味は、

「魚の背。尾根。峰。岬」

です。

また、縄文語に

「オ」

という言葉がありました。意味は、

「川尻、川口、河口、末端、洞窟など穴の入り口」

という意味です。

ここまでは上の本に書いてありました。

ここからは私のオリジナル。

「アカ」と「オ」をくっつけて「アカオ」とします。

意味は、

尾根の末端、尾根の終わるところ、となりますね。

ここで今一度、前回作った上尾を中心とした関東中心部の高低図を出してみます。

群馬から続く高地が関東平野に入り低湿地となります。

しかし熊谷の南から上尾にかけては、半島状に低い尾根が続くのです。

この図は、海抜20メートル以上が茶色になるようにし、高低が強調されるようになっています。

上尾のあたりで尾根が終わるのです。

縄文人が上尾のあたりまでやってきて、上尾のあたりを見たときに、

アカ(尾根)+オ(末端)=アカオ、と呼んでいたはずです。

Photo

縄文語の「アカオ」が数千年たって「アケオ」になったのです。

アゲオ、じゃなくてアケオ?そう、

もともと上尾は、濁音の「ゲ」を使わずに、「アケオ」と呼ばれていた可能性が高いです。

アカオ

アケオ

アゲオ

です。

前回記事でも引用しましたが、「武蔵国檀那引付注文写」という鎌倉時代の熊野詣ツアーの注文書が残っており、

「・・・足立郷あけをの郷原宿 原五郎さへもん・・・」

というように、「あけを」と書かれています。「け」が濁っていません。

昔は濁音や清音の区別がいまほどうるさくなかったと思われます。余談ですが、現代の欧州語でも、たとえば「sa」を、「サ」と発音するか、「ザ」と発音するかの厳密な区別は不要のようです。

やがて地名を漢字で表記することが必要な世の中になり、当て字として、「あけお」を「上尾」という漢字で表記するようになったのだと思われます。

関連して、上尾の北隣の町、桶川(おけがわ)の地名の由来を類推します。

下の図は上尾市教育委員会のサイトから拝借し、一部加筆しました。

Photo_3

「古入間湾」と「奥東京湾」が、上尾まで入りこんで入江になっていました。

上尾まで海が来ていたその証拠は、こちら(「平塚貝塚」 上尾市史編さん報告書 教育委員会編)の写真。

Photo_4

上尾市平方という荒川に面した地に貝塚があり、シジミやハマグリ、カキなどの海に生きる貝の貝殻と淡水に生きるたにしなどの貝殻が発見されました。

縄文人が海辺で貝を採取、食べた後に捨て場所を決めて貝殻を捨てていたのです。平方貝塚の隣接地には、いまでも西貝塚という地名が残っています。

桶川は、その上尾の入江よりも少し内陸に入ります。海から岸に上がったところになります。標高も若干ですが上尾より高いです。

上尾は尾根の末端で海の入江と接し、桶川は岸を上がり、尾根の上となります。

では縄文語に移ります。

縄文語に、カという音があります。

「上面」とか、「岸」という意味です。

これに上尾でも使われた縄文語、アカをくっつけます。

アカ(尾根)+カ(上面・岸)

=アカカ

=尾根の上面、尾根の岸の部分

です。

アカカの二つめの「カ」が濁音になるとアカガとなります。

ここからは少々都合のいい転訛(てんか。なまり)になりますが、

アカカ

アカガー

オカガー

オケガー

やがて漢字表記する必要に迫られ、桶川の字を当てて、「おけがわ」となった、と類推されます。

当て字なので、漢字の意味はまったく関係ありません。これは日本の多くの地名であてはまります。当て字をするときに気を利かせて、意味が近い感じをチョイスしていることもあるでしょう。上尾などは、尾根を表わすアカに「上」を当てたのは意味が近いほうでしょう。

さて、前回ブログ記事では埼玉の上尾と長野信更町の上尾の地形の共通点から、上尾を「尾根の末端部の上の平らなところ」としましたが、全国でそのような地形はいっぱいあるのになぜ全国で二か所しか上尾が無いのか?となりました。

そこで、今回、なまりのない縄文語である「アカオ」で調べてみました。全国の「アカオ」が尾根の末端部にいっぱいあればよしとします。

アカオに漢字を素直に当てると、「赤尾」となりましょう。

「赤尾」をグーグルで検索しました。

「上尾」という地名は日本に二つしかなかったけど、「赤尾」という地名はいっぱい検索にひっかかりました。

まずは、古くからある地名っぽい、奈良県桜井市の赤尾熊ヶ谷古墳群の位置を調べたら、

Photo_5

奈良盆地の東につらなる尾根の末端、盆地との境目にありました。

次に、滋賀県伊賀木之本町の赤尾古墳群のあるところを見てみました。

Photo_6

琵琶湖の入江と境をなす尾根の末端でした。Photo_7
滋賀県長浜の赤尾はこんな位置です。

そのほかにも赤尾が尾根の末端にある事例はいっぱいありました。

・鹿児島県奄美には尾根が終わって入江になるところが「赤尾木」という地名になっていました。

・長崎県「赤尾郷」は尾根の末端が海岸に突き出し、岬となっているところでした。

・富山県南砺市「東赤尾」は深い山の中の尾根の末端の町でした。

このほかにも日本全国に多くの赤尾の仲間がありました。

埼玉のアカオは、アケオとなまったために「赤尾」を当てず「上尾」の漢字を当て、「上」は通常は濁音の「あげ」なのでやがて「アケオ」は「アゲオ」と呼ばれるようになったのだと思われます。

追記:上尾の地名の由来についての前回ブログ記事では、「尾」を「尾根」の意味としたが、縄文語(アイヌ語)では尾根の末端だけが「オ」である。となると「長尾」ならば、長い尾根、ではなく尾根の先端まで長いところ。「西尾」なら、尾根の先端が西に向いているところ、などとなろう。

追記2:上記した平方貝塚の平方(ヒラカタ)であるが、これも知里真志保著 「地名アイヌ語小辞典」で簡単に縄文語に分解できる。

ピラ=崖

カ=上面

タ=その場所

ピラカタ=崖の上のその場所

ピラカタのピがヒとなり、ヒラカタとなったと思われる。

検証:上尾市の平方は明治時代まで荒川の河岸があり、江戸と結ぶ水運が盛んであった。

2018年8月13日 (月)

ヤマタノオロチの正体

昨年、出雲のホテルの部屋にたまたまおいてあった古事記現代語訳を読んで以来、ヤマタノオロチの正体がなんであるか、ずっと興味がありました。

(注:今回は神話の話ですので、考古学的、科学的な話ではありません)

斐伊川(ひいがわ)を見、またその川の歴史を垣間見たときに、この川がかつて暴れ川で、上流の山には古代たたら製鉄所があり、花崗岩由来の砂鉄を含んだ真砂(マサ)や、鉄分を含む赤い水が、大雨のあと流れを変えながら、さながら蛇や龍がのたうち回りながら流れていく様を、ヤマタノオロチとしたものと想像しました。

Webこちらは、島根県おおだwebミュージアムより借用した斐伊川の位置図。斐伊川は宍道湖にそそぎます。

ピンク色で示される花崗岩質の地質に源を発し、出雲平野で東進します。崩れやすい真砂を排出するため洪水が頻発したことでしょう。2018年8月の西日本豪雨による洪水を想像すると当たると思います。

Photoこちらは、「神亀時代出雲郡之図」。(出雲を原郷とする人たちより)

真ん中で屈曲する大きな川が斐伊川で、弥生時代のころまで出雲平野を西進し、海にそそいでいたことを表わしています。

この暴れ川を、のちのスサノオなる地元リーダーが、築堤したり流れを変えるなどして東進させ抑え込みました。この斐伊川の平定こそがヤマタノオロチ退治の神話だと想像しました。

出雲に旅した翌年の5月、古事記上の数々の謎を解くには、まずは神様が最初に下りてきた高千穂峰(タカチホミネ)に登ってみなければらちがあかないぞ、そう思った私は、羽田から福岡に飛び、レンタカーを駆って高速に乗り、鳥栖の吉野ケ里遺跡や、宮崎県は西都原(サイトバル)古墳を経由し、慣れぬ登山を試みました。

Photo_2道中に寄った佐賀県吉野ケ里遺跡では、蚕の繭から生糸をよっていく実演が行われていました。生糸の生産というと、古事記上では、アマテラスという女神の仕事です。アマテラスは生糸工場の工場長というか支配人のような立場でもありました。

生糸の生産は、平成の世でも、皇宮の中で美智子様の仕事となっており、雅子様も引継ぎを受けているようです。

Photo_3これまた道中に寄った宮崎県西都原古墳。そのなかで、私が注目したのは、「鬼のいわや古墳」

Photo_4鬼のいわや古墳の内部。正面上部のやや右に、黒い隙間、というか穴が見えますか?

Photo_5穴のアップ。岩が一個分、抜け落ちています。

話はやや脱線しますが、この伝説とは・・・

・・・地元の一人の鬼が美人で有名なコノハナサクヤ姫を嫁に欲しいと言ったところ、父親のオオヤマツミが、「一晩で岩屋を作ったら嫁にやる」と条件を出しました。

鬼は一所懸命に岩屋を作りあげました。ところが父親が完成した岩屋の石をこっそりと一つ抜いてしまったのです。岩屋は翌朝未完成とみなされ、鬼は残念ながら姫を嫁にすることができませんでした・・・。という悲しいおはなし。

この話に注目したのは、おととし、東北の岩木山に行ったときに、近くにあった集落、十腰内(とこしない)という変わった地名があって、調べたことがあったからです。

十腰内の言われはこう・・・。

・・・ある一人の鬼が地元の美しい女性を嫁にほしいと望みました。父親が、「一晩で十振りの刀を仕上げたら嫁にやる」と条件を出しました。鬼は一緒懸命に鍛冶を行いなんとか十の刀を完成させました。ところが鬼が目を離したすきに父親が刀一振りを隠してしまったのです。「刀は十腰無いぞ」、と言って嫁にはやらず、泣く泣く鬼は去っていった・・・という話です。

どちらも、鬼を力はあるけど間抜けな存在で、嫁にやる存在ではない、家族の一員にはしない存在、とみているのが共通しています。

おそらく山に住む力ばかり強い縄文系?鍛冶・産鉄系?の日本人を、新たな支配者側の弥生系日本人が区別してみていた表れではないかなと思います。

さて、話を高千穂登山に戻します。高千穂峰は、高天原(タカマガハラ)という神の国からアマテラスの命令によりニニギが降り立った火山です。

Photo_6高千穂峰への登山道です。最初のうちは緑の中のなだらかな道を進みます。登山初心者の私は、ペースが速く、ベテランぽい二人の男性に追いついてしまい、その二人のあまりのゆっくりさに、追い抜いてしまいました。

ベテラン二人のうちの一人が、私が追い付いて後ろを歩いているときに、「登山はこうやって、ゆっくり、一歩足を上げ、一歩足を上げ、していくくらいでちょうどいいんだよね」と仲間に言いました。でもそれは、きっと後ろについた私に言ったのです。それを無視して私は追い抜きました。

Photo_7登山道の、馬の糞です。

というのは冗談で、火山性の赤い石がごろごろ転がっています。たしかに糞みたいです。古事記のなかには、糞が神になる話がでてきます。こういう火山弾のことを糞と表現したのかなと思いました。

Photo_10途中、昨年大噴火した新燃岳の火口がよく見えました。わずかばかり水蒸気を上げていました。

Photo_9お鉢、という丸い火口のふちを進みます。転落したら地獄です。お鉢は活火山で、地の底から熱気が吹き上げてきました。奥に高千穂峰の頂上が見えました。

このあたりで、私は相当へばっていました。追い抜いた二人組は、まだ私に追いついていませんが、だいぶ近づいてきているのが見えました。追い越した人に追い越されたくはありませんね。先を急ぎます。

Photo_11お鉢の火口を三分の一くらい回り込み、いったん少し下ってから高千穂峰の山頂へ直登します。お鉢と高千穂峰の間の低地に、霧島神宮がありました。

この時点で、追い抜いた二人組に、追い抜かれました。あまりに典型的な「うさぎと亀」の昔話を地で行ってしまい、ほとほといやになりました。

軽く脱水症状になっていて、暑いのに冷や汗が出てほんとにやばいぞ、という感じ。引き返す勇気(笑い)をだそうか迷いましたが、ひさびさに「根性」を出し、登り続けました。

私を抜き返すときに二人のベテランさんが、声をかけてくれました。

「あと三十分くらいで頂上だよ」

「本当ですか?がんばります!」

情けないとかは感じません。背中を押してもらえた一言でした。ありがとうございました。

Photo_12ついに頂上。視線の先は、新燃岳。水蒸気を上げていました。



Photo_13高千穂峰の山頂に突き刺さる逆鉾(さかほこ)。鎌倉時代あたりに突き刺されたのでは、という説があります。

ここがアマテラスに派遣されたニニギが降り立った場所です。高千穂峰は、まわりの丸い火口を持つ火山とは異質で、溶岩ドームによって栓をされたように火口が閉じた火山です。

天皇家の祖、アマテラスがつかわしたニニギらによって、火山の勢いが平定されたしるしの逆鉾と思われます。

Photo_8山頂から振り返ったお鉢。ふちを登山道が通ているのが見えます。山頂で一休みし、無事に麓に下りることができました。

Photo_14こちらは宮崎県西都原にあるニニギの嫁、コノハナサクヤ姫のお墓。

Photo_15コノハナサクヤ姫の墓(左)と伝わる古墳によりそうようにニニギの墓と言われる古墳が右にあります。前方後円墳のようです。

山頂を丸い溶岩ドームで覆われた高千穂峰は、水平な地平線を持つお鉢を従えています。高千穂峰とお鉢のコンビが前方後円墳になったのかもしれないと思いました。

さて、高千穂峰の山頂に立って、なにをつかんだか。古事記の謎はなにか解けたのか。正直言って、登るのに必死過ぎて、そのときはあまり感じるものはありませんでした。

さて、ここからは、帰宅後のお話です。やっと本題です。ヤマタノオロチの正体についてです。

答えから。ヤマタノオロチは溶岩流です。斐伊川などの暴れ川、ではありません。

Photo_16こちらの写真は普賢岳復興事務所のサイトから拝借した雲仙普賢岳からの火砕流。

日本の火山は粘り気の強い溶岩を排出するため、溶岩流というより火砕流になることが多いですが、夜は火砕流も高温のため赤く光ります。

Photo_18こちらは2018年に噴火したハワイ、キラウエア火山の溶岩。ハワイの溶岩は粘り気が少ないため平地でも止まらずによく流れます。まさに赤い大蛇。この映像から私はインスピレーションを受けたのは事実。

古事記では、ヤマタノオロチは、赤く血のしたたる腹を持ち、目はホオヅキのように赤いのです。オロチは大蛇のこと。

その赤い大蛇をスサノオが太刀で一振りすると、刃が欠けてしまいます。欠けてしまうということは硬いのです。蛇や川の流れなら太刀が負けるわけありません。刃は欠けません。

ということは、ヤマタノオロチは石のように硬く、赤いのです。そして蛇のようにくねくねと進んでくるのです。それは溶岩流以外の何物でもないでしょう。溶岩は冷えて固まると刀をはじく硬い石になります。

Photo_17こちらは、グーグルマップで、新燃岳を左下に置いた航空写真。地質学的に宮崎県の高原(たかはる)町は、「溶岩末端崖」(ようがんまったんがい)で有名なのです。赤い矢印で溶岩の方向を示しました。

ちなみに、高原(たかはる)は、高天原(たかまがはら)の転じた地名という説もあります。

新燃岳などから流れ出た溶岩、火砕流は、高原町方面、東に流れ、いくつもの溶岩流に分かれて、最終的に10か所くらいの溶岩末端崖を形成しました。それは今も残っているのです。崖は開発されず緑の林になっている様子がこの航空写真から見て取れます。

溶岩末端崖は、溶岩が流れ着いて止まったところで、そこが崖になっているのです。

この流れを古代の人はどう見たか。

「神の山から得体のしれない赤いものがいくつもの頭をもって近づいてくる!それはすべてを焼き尽くす!」

それはそれは恐ろしい光景だったのではないでしょうか。めったには起こらないけど、起こったら壊滅的な目にあう。

それをヤマタノオロチ神話として、人間の手に負えない神によるしわざとして語りついだのではないでしょうか。

神のしわざは別の神にしかコントロールできない、それを神語りとして、親から子へ数千年にわたって引き継いだのではないでしょうか。

ついに日本人が文字を持つにいたった奈良時代、ようやく古事記として文字に固定したのではないでしょうか。わたしはそのように感じました。

2018年6月30日 (土)

サッカーでのコンプランアンス

ワールドカップサッカーの話題で持ちきりの今日この頃。

今日は2018年6月24日の日本対ポーランドの試合を事例として、コンプランアンスを考えてみます。

その前に、コンプライアンスの意味のおさらいとして、この写真を載せます。

Photo

Photo_2

映画「パイレーツオブカリビアン/生命の泉」のワンシーンです。

海賊船に乗った主人公ジャック(写真右)が、船員仲間になったスクラムと一緒に甲板掃除をしています。監視する上官はひたすらムチ打つ大男。そこでジャックがスクラムに問いかけるシーン。

字幕には、

ゾンビは命令に従順だから

と書いてありますね。

この時の実際のセリフは、

ジャック:He is a curuous one.  「あいつ(上官)、気味悪いな」

スクラム:He has been zonbiefied. 「やつはゾンビだから」

ジャック:eh? 「え?」

スクラム:Zonbiefied. Blackbear is doing. 「ゾンビにさせられたんだよ。船長の黒ひげに」

ジャック:・・・

スクラム:All the officers are same. Makes them more compliant.

「どのお偉いさんも同じだろ。部下をできるかぎり従順にしておきたいのさ」

てな感じ。 コンプライアンスの形容詞、コンプライアントが会話で使われていて、「恐ろしい上司に逆らわない従順さ」の意味で使われています。

思い出すのが、日大アメフト部の事案。危険なタックルをした学生はすべての権限を握る監督の命令に黙って従ったのです。この学生の監督へのコンプライアンス度合いはとても高かった。コンプライアンスのとても分かりやすい事例。

本来コンプライアンスは「動作源の力に対する従物の追従性」という意味の物理学用語なのですが、文系的に言うと、「怖いものに対する従順性」、「長いものには巻かれろの精神」のように言えるでしょう。

おさらいはこの辺で。

さて、日本対ポーランドの試合の最終の時間帯、お分かりとは思いますが、最後の10分間の時間稼ぎについてを今回のテーマとします。負けている状態での時間稼ぎの部分です。

新聞などマスコミや、個人的ネットの書き込みで、この最後の10分間を肯定的にとらえたり、批判したりいろいろです。批判的な意見にはFIFAの規範に違反している、というものがありました。ですので、私はこの規範とそれへの従順性、順守性について考えてみます。

今回、二つの視点があります。

まず西野監督ひきいるチームとしての行動。これを監督の行動とします。

もう一つはチームを構成する個々の選手の行動。これを選手の行動とします。

まず選手の行動のほう。従うべき怖いものは二つあり一つは監督です。ゲームに起用するしないの権限を持っている監督に対する従順性はどうでしょうか。こちらは一目瞭然。監督の指示に対するコンプライアンスは100%。

選手が従うべきもう一つの怖いものは、試合中のサッカールールやFIFA規範。試合中のサッカールールについては、今回、審判から時間稼ぎのイエローなどは出ませんでした。

残されたのはFIFA規範です。選手個々がFIFA規範に反するか順守されていたかは、監督の指示に従う立場だったために隠れてしまいます。ですので、西野監督のFIFA規範に対するコンプライアンスをみてみましょう。

監督の従うべき「怖いもの」はFIFAが決めた規範がそれになります。

Code of Conduct 「行動規範」2002年4月版から、関係しそうなところを引用します。

  • 前文
  •  

    FIFA's Code of Conduct encapsulates all the sporting, moral and ethical principles for which FIFA has always stood and for which it will continue to fight in the future, regardless of the influences and pressures that may be brought to bear.

     

     

    FIFAの行動規範は、スポーツの道徳的・倫理的プリンシプルでなりたつ。どのような圧力があろうと、FIFAはいつもそれに基づき、将来へと続く。

     

    1.Play to Win 勝利のためにプレーしなさい

     

    Winning is the object of playing any game. Never set out to lose. If you do not play to win, you are cheating your opponents, deceiving those who are watching, and also fooling yourself. Never give up against stronger opponents but never relent against weaker ones. It is an insult to any opponent to play at less than full strength. Play to win, until the final whistle.

     

    どのゲームでも勝利を目指すこと。負けようとしてはいけない。もし勝とうとしないなら、それは相手をだまし、観客を裏切り、自分を馬鹿にしていることになる。強い相手にもあきらめず、弱い相手にも手を抜くな。手抜きは相手への侮辱だ。最後の笛が鳴るまで勝利を目指せ。

     

     

    2.Play Fair 正々堂々とプレイしなさい

     

    Winning is without value if victory has been achieved unfairly or dishonestly. Cheating is easy, but brings no pleasure. Playing fair requires courage and character. It is also more satisfying. Fair Play always has its reward, even when the game is lost. Playing fair earns you respect, while cheats are detested. Remember: It's only a game. And games are pointless unless played fairly.

     

    卑怯なやりかたでつかんだ勝利に価値はない。だますことは簡単だ。しかしなんの楽しみももたらさない。正々堂々と戦うには勇気と自立した個人が必要だ。正々堂々と戦えば、たとえ負けたとしても称賛と尊敬をもたらす。 だましは嫌われる。考えてみてくれ。サッカーは単なるゲームだ。ゲームは正々堂々と戦ってこそ価値がある。

     

    (中略)

     

    6. Promote the Interests of Football  サッカーの面白さを伝えなさい

     

    Football is the world's greatest game. But it always needs your help to keep it as Number One. Think of football's interests before your own. Think how your actions may affect the image of the game. Talk about the positive things in the game. Encourage other people to watch it or play it fairly. Help others to have as much fun from football as you do. Be an ambassador for the game.

     

    サッカーは世界一のゲームだ。世界一を維持するには皆の助けが必要だ。自分のことの前にサッカーの利益を考えよ。君の行動がどういうイメージをもたらすか考えよ。ゲームの肯定的な面を伝えよう。多くの人々がサッカーを見たいと思い、多くの人がやりたいと思うようにしよう。サッカーの楽しさを伝えよう。皆がサッカー大使になってくれ。

    (後略)(引用終わり)

    前文に書いてある通り、ルールでなくもっと広い概念のプリンシプルになっています。

    プリンシプルとは信念とか、哲学的原理原則ということ。機械じゃない人間は一人一人が違うプリンシプルを持ってよいもの。上に挙げた規範も、FIFAの2002年4月版でははこう決めた、というものにすぎません。命令形ではあるが、罰則がないのでお願いベースと言えます。

    罰則がないから怖さがないかな。怖いものに従うのがコンプライアンス・・・・それは置いておいて、西野監督の行動に照らし合わせます。

    否定派に立つと・・・

    1.の、「どのゲームでも勝利を目指したか?」に照らし合わせると、この試合の「負けている状態の維持」を指示したので、違反している。

    2.の「正々堂々と戦ったか?」は、負けている状態でボールを回すだけだったので、正々堂々とはしていない。

    6.の「サッカーの面白さを伝えよ」に照らし合わせると、あの行動はサッカーの面白さを伝えていない。違反です。

    が、しかし肯定派に立つと・・・

    1. 「勝利を目指したか?」について。予選リーグの3ゲームの合計数字で、決勝トーナメントに進出できるかどうか決まる。決勝トーナメントに進むという「勝利」を目指した行動だった。

    2.「正々堂々と戦え」について。観客のブーイングに耐えしのび、批判を背負うその自己犠牲の精神は正々堂々としている。

    6.「サッカーの面白さが伝わったか?」はどうか。あのような時間稼ぎも含めてサッカーだ。国際間のサッカーゲームは武器を使わない戦争とも言われている。相手チームとの一時的な和平という外交もまた戦争である。

    下の動画↓は、2018年4月に行われた女子ワールドカップ予選最終試合の最後の3分間。

    なでしこジャパン VS オーストラリア

    この動画の試合でワールドカップ出場権が決まりました。他会場の結果も踏まえ得点が1対1ならこの両チームが2019年ワールドカップ フランス大会への切符を手にします。

    そこで起こったのは最後の3分間、なでしこジャパンは3人のボール回しに終始したのです。高倉監督が指示を出しています。相手のオーストラリアもその時点でワールドカップ出場が維持できます。両者ともゲームの勝利は目指しませんでしたが、まったく問題になりませんでした。

    西野監督も今回同じことをしました。

    「勝利」という言葉の解釈もポイントでしょう。今やっているゲームだけの勝利なのか、決勝トーナメント出場まで広くとらえたゲームの勝利なのか。

    言葉には一つの意味、解釈はありません。これはソシュールやウィトゲンシュタインという先人が看破しました。権力あるものが恣意的に言葉に意味をつけるか、大衆の使用によって意味が付けられていきます。

    FIFAはこの規範の中の「勝利」の意味についてとやかく言っていません。

    今回の西野監督は、「勝利」の意味を、決勝トーナメントに日本代表を持ち上げることと意味付けしたのだと思います。

    それに対し、いまのところFIFAからは規範違反についておとがめなしのようです。

    今回FIFAは、イギリス流のcomly or explain (コンプライ オア エクスプレイン=従順に従え、従わないなら理由を説明しろ)の思想で行くのではないでしょうか。この思想はイギリスの法実務で使われています。

    コンプライ オア エクスプレインについての以前のブログ記事はこちら

    規範やルールに従わないなら、その理由をわかるように説明しなさい、ということです。

    FIFAは、西野監督の行動とその後の説明が、

    「規範にコンプライしなかった理由の合理的説明になっている」、

    そう判断したのではないでしょうか。

    2018年7月4日追記

     

    コンプライアンス(怖いものに対する従順性)は、選手や兵士、企業の従業員の行動を事例にした場合、とても哲学的になります。

    今回、サッカー日本代表の選手個々は批判のまとになりませんでした。しかし、日大アメフト部の例のタックルした選手は当初とても批判され、いまでも多少批判の的になります。

    戦時中の上官の命令を受けた兵士の残虐な行動も批判の的になったりならなかったりします。

    企業不祥事を実際の実務で行った従業員が批判の的になることは少ないです。しかし批判され罰を受けることもあります。

    こういう倫理の分野は哲学を打ち立てねばならない分野となります。もしポーランド戦で日本代表選手のうち、ある一人が監督の指示は規範へのコンプライアンスがなっていない!!!と勇猛果敢に攻めたらどうでしょうか。その後誰もが彼を起用することに二の足を踏み、彼はサッカー人生を台無しにするかもしれません。

    一人の人間の行動と倫理の関係は、生物学、脳科学との連携が必要になると思っています。いまそちらを少しずつ勉強しています。

    2018年6月10日 (日)

    天空の湖の砂鉄 群馬県野反湖(のぞりこ)

    群馬県の山の中にある野反湖(のぞりこ)は透明度も高く、標高も高く、天空の湖と呼ばれているらしい。いちど行ってみたいなと思っていたので、天気のいい日を選んでドライブを兼ねて行ってみました。

    ネットでいろいろ写真を見るとなにより人が少なそうで、神秘的?なのがいいなと思ったのですが、午後2時ごろに駐車場に着くと、先客が大勢いました。

    Photoドライブ主体だったのでトレッキング用の装備はなにもしていかなかったのですが、ハイキングコースを少しはずれて湖畔に下りてみました。人は一人もいなくなりました。

    湖畔は酸化して茶色くなった花崗岩のガレキが多く、歩きづらいことこのうえなし。河原石のようにころがって丸くなることがないため、角ばったままです。

    Photo_2花崗岩のガレキがその風化した砂にかわるあたりの写真です。黒い土が目につきます。

    以前のブログ記事で出雲崎久田(くった)海岸砂鉄を紹介しましたが、そのときよりもまとまった感じでありました。そう、あきらかに砂鉄です。すこし採集して、帰宅後にいつもの磁石で確かめますね。

    Photo_3波打ち際?というのか、水際というのか、砂鉄はかなりの量があります。

    もしこれが本当に砂鉄だったら川を流れて海岸に到達します。野反湖は関東は群馬県の湖。いずれその水は利根川に合流し、千葉県や茨城県の海岸に砂鉄を供給する、と思いました。

    ところが、地図をみてびっくり。野反湖は分水嶺の北側に位置し、その水は信濃川に合流、新潟県の日本海にそそいでいたのです。

    もしかしたら、出雲崎の砂鉄は野反湖周辺の砂鉄が流れていった可能性もなきにしもあらずです。

    Photo_4数はすくないですが、グリーンタフ=緑色凝灰岩もありました。火山灰が熱変性して緑色になった石です。水につけて緑色を鮮やかにしてみました。この石があるということは火山灰を降らせた火山が近くにある証拠です。

    Photo_7

    ガレキの上は歩きづらいく足首に負担がかかりました。ストックを持ってくればよかったなと思いました。

    いい感じの流木が目に入ったので、持つところを石で研磨してすべすべにし、ストック代わりにしました。

    午後三時を回るころから人の気配がまったくなくなり、すこしだけ原始人になれた気分でした。

    Photo_8帰りに通りがかった川です。河原の石が赤茶色になっています。鉄分が豊富な証拠です。火山の噴出物に鉄分が多く含まれているのです。

    Photo_9いつもの実験です。黒い土をこまかくして、磁石をつけます。

    Photo_10いい感じで砂鉄が磁石につきました。鉄の含有率がすごく高そう。

    Photo_11こちらも湖畔で拾った鉄がさびたような赤茶色の石。こすりあわせて粉にします。

    Photo_12こちらも磁石にくっつきました。鉄鉱石のようなものです。砂鉄のもとですね。

    砂鉄を利用していた古代たたら製鉄の砂鉄のみなもとは、火山にある、ということがよくわかりました。

    火山は、鉄の原料、最高級の矢じりの材料になる黒曜石、ミネラルを含む土壌、温泉などなど、人々にメリットをもたらす存在。火山の頂上には神がいる、と古代の人々が信じたのもわかるような気がしました。

    以上、単なるドライブだったのが、砂鉄収集になってしまいました(苦笑)。

    2018年4月21日 (土)

    上尾の地名の由来 vol.1

    上尾の地名の由来 vol.2はこちらです

    わがまち埼玉の上尾(あげお)は、上尾の読みが「あげお」、にならないケースをよく聞く。「かみお」とか、「うえお」とか、どう読んでいいのかわからないらしい。

     

    地名の本を読んだら、行政単位で「上」と書いて「あげ」と読ませる地名は、現在、長野県上松町(あげまつまち)が唯一の仲間のようである。

    ということでなにか共通点やらヒントが得られるかと思いまず長野県上松(あげまつ)町に行ってみた。

    Photo_11長野県上松町は、このあたりである。御嶽山もほど近い、木曽街道沿いである。(写真や図はクリックすると大きくなります)

    Photo_3埼玉県上尾は中山道(なかせんどう)の宿場町であるが、木曾街道=中山道なので、上尾も上松も同じ中山道宿場町であった。大火があったらしく、むかしの風情の残るショットはこの写真くらいしか撮れなかった。

    Photo_4頑張れ!御嶽海!という看板が商工会館の前にあった。御嶽海(みたけうみ)の出身は上松なのか。

    Photo_5わがまち埼玉の上尾商工会議所もVリーグ女子バレーボールチーム、上尾メディックスを応援している。これは上尾市役所壁面の大ポスター。

    上尾と上松で、スポーツ選手を応援しているという共通点を発見した!

    が、これが地名に関係するわけない。

    Photo_6埼玉の上尾にはこれといった見どころはないのだが、長野県上松にはあった!寝覚めの床という浦島太郎の寝たというベッド状の奇岩がいっぱいある景勝地が木曽川沿いにあるのだ。

    Photo_7地名のことはさておき、見とれてしまった。竜宮城から現世に帰ってきた浦島太郎がここを寝床にさだめて、釣りをして暮らしたのである(物語では)。

    Photo_9浦島太郎にちなんだ、浦島堂。

    Photo_8岩と岩のあいだから一生懸命伸びる松。栄養に乏しいと思うのだが、すごい生命力だ。

    Photo_10ちいさな松も岩の間から上に上に伸びようとしている。

    地名の由来がビビビときたぞ。上へ上へ伸びる松。それが上松の地名の由来に違いない。ものの資料によれば、山のうえのほうに松林があるので「上松」という地名がついた、とあった。そうじゃないだろう。そんな場所は日本に五万とある。

    植物が生えにくいきびしい岩場の環境にも関わらず、元気に上に上に上がっていく、まさにアゲアゲな松を見た人が、この地を上松と名付けたに違いない。

    一方、埼玉の上尾の古い言い伝えもある。童子三人が稲穂と鍬(くわ)をもって踊り歩き現在の上尾にやってきていずこかへ消えた、残された鍬と稲穂を本陣家が祀り、上穂の鍬(くわ)神社になったのだと。鍬神社は、現在の上尾駅すぐそば、中山道沿いに氷川鍬神社として鎮座している。

    上穂が上尾に転じた、という話である。

    「上穂」か・・・?

    上尾という地名が最初に文書で出てくるのが、「武蔵国檀那引付注文写」で、熊野那智山の実報院に到着した檀那の名前を報告した文書らしい(「上尾市史第八巻別編1地誌」による)。

    「・・・足立郷あけをの郷原宿 原五郎さへもん・・・」

    とある。「あけを」が上尾のことをさし、また原宿は現在の上尾市東南部の原市である。 

    鍬神社は、明治42年に上尾二ツ宮の氷川神社女体宮の方を合祀して氷川鍬神社となり氷川ブランドに名を連ねるが、創建は江戸時代、1632年と伝わる。

    ということは、中山道沿いにある鍬神社は、徳川の五街道と宿場制度の出来た後につくられた村の鎮守だ。

    いっぽう、「武蔵国檀那引付注文写」が書かれたのは「熊野参詣の衰退とその背景」の論文著者近藤祐介によると、熊野参詣の衰退しつつある戦国時代の1500年代と推定されている。すくなくとも上尾(あけを)の地名は、江戸時代よりも前にあったこととなる。

    室町時代にはじまる熊野参詣の流行は、戦国時代に交通網の遮断や主な参詣人である武士階級や富裕層の疲弊などで衰退した。この熊野参詣の注文書の書かれた年代は江戸時代より前であり、鍬神社の創建は江戸初期なので、「上穂」の興味深い話は後世のひとびとの付会となろう。

    さて、めげずに上尾の地名の由来をさぐるためにグーグル検索をかけていたら、こんどは「上尾城」が出てきた。

    上尾には城があったのだ!

    ただ、埼玉の上尾の話ではなく、またもや長野県の話となる・・・。

    今度の場所は、長野市信更町(しんこうちょう)上尾(あげお)。

    さっそく行ってみた。

    Photo_12大きな地図ではこちらである。平林神社にマークをつけたのだが、この上尾集落の鎮守であり、上尾城ゆかりの人物、戦国武将、平林氏を祀る神社だ。

    Photo道の駅信州新町のすこし手前の国道19号を走っていたら、上尾の標識がっ。ローマ字でAgeoと書いてある。とても不思議な感覚だ。




    Photo_13こちらが信更町(しんこうちょう)上尾にある平林神社。

    Photo_16柱には「上尾公民館」という額がかかっている。

    Photo_14この右奥の小高くなっているところが上尾城跡のある小山。左下のほうに上尾の集落が続く。閉校していたが大きな校庭をもつ小学校もあった。小規模ながら田んぼで稲作も行われていた。尾根の上の平地、という印象だ。

    Photo_17写真の右へ上る細い道が上尾城跡への小道。中世の山城跡だ。

    Photo_18小道を入るといきなり右側に朽ち果てたお堂。こ、こわい。慣れてないとこういうのはゾクっと来るものがある。

    Photo_19天保(1830年~1844年)の文字が見える小さな石碑。お城が築かれたのは上杉・武田の活躍した時代のものだが、江戸時代後期まで当地にゆかりのあるかたが管理されていた可能性がある。

    Photo_20すこし先に、馬という文字が見える石碑。馬の無病息災にご利益があるという馬頭観音だろうか。

    Photo_21小道をつきあたると左が崖、右に山城の掘割があり、ちょうど道のようになっていたので歩いてみた。

    Photo_22掘割を進むと、左上へと土塁を斜めに上がる細い道があったの上がってみる。

    Photo_23斜めに上がる道の先端は土塁に切れ目があった。古城の専門用語で、虎口(とらぐち)というらしい。

    Photo_24虎口を通ると広い平坦地があった。ここに城としての屋敷があったのだろう。

    Photo_27最も奥の「三の郭」という尾根先端部。見張りの役割があったようで、この先は崖になっている。

    この上尾城跡、人の気配がまったくない。それどころか、ガサゴソとか、カサカサカサカサ、とかの音がたまに聞こえて、動物の気配がした。

    熊はまだ冬眠中のはず。蛇もまだだろう。うさぎかりすか?ならいいが、心臓がドキ!とする瞬間が何度かあった。今思えば、たぶん小鳥だろう。

    Photo_28城跡の東側上部、平林神社の先には上尾配水場があった。

    Photo_29上尾配水場からさらに北東に伸びるハイキング道のような小道があった。

    Photo_30少し進むとまた掘割があった。ハイキング道み見えた道は、隠れ道、というらしく城の裏手の逃げ道のようだ。そこにも掘割をつくって、一気に攻め込まれないようにしていたとみられる。

    3d_2(クリックして大きくしてみてください)

    上尾城跡の探検を終え、家で地形を調べる。こちらは国土地理院の信更町上尾の地図。犀川(さいがわ)にむかって尾根が突き出している地形で、尾根の上は比較的平らで田畑もある。

    3d2こちらは東から西を見た埼玉県上尾の3D地図で、高低差を約10倍に強調してみた。およそ海抜20メートル以上が茶色になるよう設定した。群馬方向から伸びる尾根状の先端部分に埼玉の上尾があることがわかる。

    もちろん、尾根と言っても、関東平野のど真ん中。高低差はわずかである。地理学的には大宮台地と名付けられた尾根状の土地だ。

    漢字として地名に使われる「尾」という字は、小高い地形や尾根を指すらしい。おそらく動物の尾からの連想だろう。

    「西尾」は西にある尾根状の部分。

    「中尾」はまんなかあたりの尾根状の部分。

    「長尾」は長い尾根となる。

    「上尾」は?

    地図を見ながら長野の上尾と埼玉の上尾の共通点をいまいちど探す・・・・・・・・。

    「尾根の先端部分」

    「その尾根の上には平地が広がる」

    この二つが共通点。

    ということで、

    「上尾」の地名の由来は、

    「尾根の先端あたりで、尾根の上に上がると平らになっている土地」

    とした。

    2018年4月28日追記

     

     

    以下は資料として、「国鉄全駅ルーツ大辞典」(竹書房 昭和53年発行)を古書店でもとめ紐解き、参考として抽出、引用した。

    抽出したのは駅名の終わりに、「尾」、がつく事例である。意味ごとにA,B,C,D,E,Fと六つに分類した。(下線やマーカーは当ブログ管理人による)

     

    (A) 尾根や丘などの意味で使われている事例(20事例のうち11事例)

     

    1.佐世保線・永尾駅:麓へ長く延びている緩傾斜地

     

    2.長崎本線・道ノ尾駅:尾根の上を道が通っていることろ。

     

    3.豊肥本線・滝尾駅:タキ(断崖)オ(丘)。断崖になった所がある丘。横尾百穴がある。

     

    4.矢部線・船尾駅:船形をした尾根

     

    5.宇部線・丸尾駅:宇部市東岐波の海岸で古い漁港。付近に古代遺跡が多い。マルオとは「丸味をもった尾根」のことで、この地名は特に西南日本に多い。

     

    6.片町線・長尾駅:生駒山系の一つ、山城・河内の境に位置する甘南備山(かんなびやま)から西北に長く延びた尾にあたる、いわゆる形状地名である。

     

    7.高山本線・越中八尾駅(えっちゅうやつお):八尾は谷(やつお)のことと思われる。

     

    8.中央本線・高尾駅:標高600メートルの高い尾根(峰)の山の意である。

     

    9.総武本線・松尾駅:松の密生する尾根の延長線上に開けたことを示す集落名である。

     

    10.足尾線・足尾駅:アシオとは金山のことである。おあしはお金、尾は山の尾根であることは確かである。

     

    11.花輪線・岩手松尾駅:イワテは岩の横手、つまり岩国のこと。松林の多い尾根地を開拓したことを示す地名。

     

     

     

     

     

     (B)生い茂る、という意味で使われている事例(20事例のうち4事例)

     

    1.豊肥本線・菅尾駅:菅(すが)オ(生)大野川岸に菅が生えている里。

     

    2.肥薩線・吉尾駅:ヨシ(芦)オ(生)。川が淀んで川岸に芦が生えているところ。

     

    3.山野線・湯之尾駅:ユ(湯)ノ、オ(生)。温泉。

     

    4.大糸線・稲尾駅:尾はのことで、稲生と同義。水田地帯を意味する。

     

     

    (C) ところ、という意味で使われている事例(20事例のうち2事例)

     

    1.鹿児島本線・荒尾駅:アラ(荒)ヲ(処)。肥後と筑後の国境の関の川の攻撃岸にある荒れ地。

    2.氷見線・島尾駅:島尾を洲のの意。海岸線の平坦地にこの地名がある。

     

     

    (D) 川尻、川口の意味で使われている事例(埼玉の上尾の項は、私が当ブログ記事で書いた説と違い川の河口という分類をしている。アゲのほうは私の説と一致している)

    (20事例のうち1事例)

     

    1.高崎線・上尾駅:アゲはアゲタで高地の田ということ。オは川尻、川口の意があり、むかしは荒川の支流の川口にあたっていたと思われるところである。

     

     

    (E) 地域の有力者の姓を由来としている事例(20事例のうち1事例)

     

    1.宇野線・妹尾(せのお)駅:平安末に、平家の妹尾兼康が居館を置いた所で、この姓が地名かしたもの。

    (F) アイヌ語を由来としている事例(20事例のうち1事例)

     

    1.広尾線・広尾駅:ピラ・オ(注 アイヌ語。崖のある所)からきている。

     

     以上。

     

    2018年4月16日 (月)

    鬼鎮(きちん)神社と七鬼(しちき)神社

    長野の鬼を調べたついでに、地元埼玉の鬼をちょっとみてみたいと思います。(写真はクリックすると大きくなります)

    まず外せないのが、鬼鎮(きちん)神社。鬼に対する鎮魂の神社ということでしょうか。あるいは鬼が地を鎮めることを願う、ということでしょうか。埼玉県の嵐山(らんざん)町にあります。

    Photo神社の正面です。

    Photo_3拝殿にある扁額。赤鬼と青鬼がかわいらしく描かれています。




    Photo_4由緒書き。節分の日に、「福は内、鬼は内、悪魔外」と言って豆をまくそうです。ほんとかな?鬼が「わるもん」じゃなくて、守ってくれる「いいもん」としてとらえられているのということですね。来年の節分にはぜひ行ってみようと思います。

    ご祭神は、衝立船戸(つきたつふなと)の神。八街比古(やちまたひこ)と、八街姫(やちまたひめ)も書いてありますが、古事記伝によると同じ神を指すとのこと。

    衝立船戸(つきたつふなと)の神を字から判断すると、船戸=港、に衝立(ついたて・板塀)を立てて、外の人間が上陸するときに、いったん検疫ではないけど、疫病にかかっていないか、怪しい人間ではないか、などを調べて、すぐには上陸させない、という意味に違いありません。

    いわゆる塞(さい=ふさぎ)の神ですね。

    Photo_5お賽銭箱の脇にいっぱい鉄の棒がっ。個人が奉納できるようです。「鬼」がつくと大抵はネガティブな意味づけがされますが、「鬼に金棒」はポジティブに使われますね。

    Photo_6この写真の真ん中の森の中に鬼鎮神社があります。鬼鎮神社は、本殿の奥のほうがなだらかな下り坂に続いていました。今まで見てきた神社は本殿の後ろが高くなっている、山になっている神社が多かったですが、ここは逆です。

    たたら製鉄に都合のよさそうな斜面だなと直感しました。さらに下りていくと、やはり川がありました。市野川です。

    Photo_14この地図は嵐山町役場作成のHPから拝借しました。私が去年、「地学の人」だったころ石を見るためにこの地図を見ながら歩き回りました。今、神社とか鬼を調べるためにまたこの地図を見ているのがなんとも。

    黄色のマーカーで囲ったところが鬼鎮神社。北に市野川がありますが、中央構造線と想定される断層(黄色の点線)に沿った川だということがわかります。

    またアジア大陸東岸の火山帯を由来とする深成岩帯(図の赤い部分)を通ってきた粕川との合流直後の位置であることもわかります。

    地中深部の鉄分を多く含む地質と思われ、砂鉄がしっかりと取れそうです。古代から中世にかけて、たたら製鉄民がこのあたりにいた可能性が高いと思います。

    農民にカマやクワを与え、武士団には刀や矢尻を与え、台所には包丁を与えることのできる製鉄民。慕われる鬼となってこの神社に、ポジティブな存在として祀られた、ということではないでしょうか。

    さて帰り道。たまたま七鬼(しちき)神社という神社がグーグルマップに二か所出てきました。鬼がらみということで、こちらも行ってみました。

    3まずは嵐山町のおとなり、東松山市の唐子東というところにある七鬼神社です。とっても小さいです。通常なら大きな神社に合祀されて末社になるところでしょう。

    Photo_8東松山市にはもうひとつ、七鬼神社あります。若松町というところの大きな交差点にあります。

    こういう丸見えの神社は苦手です。ドライバーから見ると、「神社ファンの人?」とか、「ふーん、こんな神社にも来る人いるんだぁ」って感じ?

    しかもこの神社、道路に面して、野球の選手には有名な箭弓(やきゅう)神社への行き先看板がでかでかと出てました。つまり、

    「ここには来なくてもいいから、箭弓(やきゅう)神社にいきなさいよ」

    と言っているようでした。

    私は野球はやらないし、七鬼神のほうがよっぽど興味をそそる。頑張って調べを続けます。

    Photo_9鳥居だけでなく祠も質素です。きちんと掃き掃除はされていました。ご祭神は見えませんでした。

    さて七鬼神に妙に好奇心をそそられて、家に帰ってから調べました。といっても、ググっただけですが。




    で、出てきたのが吉見町の七鬼神なのですが、こんどは八幡宮に合祀された末社でした。埼玉県吉見町の長谷(ながやつ)ということろにあります。

    日を改めて行ってみました。すると氏子さんたちの集まりの日だったのか、境内でにぎやかにしていたので、しばらく付近を「ウォーキングの人」になって時間をかせぎました。

    2氏子さんたちが建物の中に入って、わいわいがやがやと宴会?を始めたらしいタイミングで境内に入りました。(むしろあやしく見えたかな?)

    上の写真の鳥居を見ますと、足が六本あります。両の柱の前後に二本、補強のようなのがありますね。これは神仏習合の神社の証拠です。

    Photo_12ネットの先達がブログに書いていた通り、鳥居の扁額には八満宮と書かれていましたが、拝殿の扁額は八幡宮と書かれていました。お寺と違って地元神の神社はこれくらいユルくてもいいような気がします。

    Photo_13境内の一番奥にあった七鬼神の祠というか石塔。文政三年につくられたようです。

    さて、記紀神話には存在しない七鬼神とはそもそもなんぞや、となりますが、他の方のブログを見たところ「吉見のむかし話」という本にヒントが載っていそうなことがわかりました。

    八幡宮の近くの吉見町図書館に蔵書があるようだったので、閲覧をしてきました。以下、ヒントになりそうな部分を引用させて頂きます

    (吉見のむかし話 64ぺージ)。

    ふせぎ 

     寄稿 大澤清吾

    (一)防鬼(ふせぎ)

    この行事は、いつ頃から始まったかも判らないが、毎年五月十七日に行われた。版木で鬼の名(五つか七つ鬼の名を連記)を広紙に刷ったお札を、五銭が十銭包んでお寺から貰い、家の入口に貼付して、疫病の入るのを防いだ。

    当番の人達は、藁を持って寺へ集まり、真ん中に直径三寸くらいの穴をあけた大きさ一尺ほどの馬のわらじのようなものと、太さ三寸くらいの棒しめ縄を作り、これを穴のあいたわらじに思い切り差し込んで鬼のお札をつけた。

    昔吉見町が横見郡であった当時の、土丸村、根古屋村、柚沢村(現在は三村合併して大字北吉見)の入り口に、道路をはさんで縄を張り、これに吊り下げ、村に疫病の入るのを防いだと言われた。

    昭和二十年に住職が死亡し、兼務寺となったので、それ以後はこの行事は立ち消えとなった。

    引用終わり(下線はわたしが引きました)

    どうやら七鬼をいわゆる塞(さい)の神として、外からくる災厄を防ごうとしたようです。またこの行事は寺の住職が行っていたようで、神仏習合している様子が見て取れますね。

    Photo_3そういえば、ドライバーから丸見えの東松山市若松の七鬼神社。この地図をよくよく見ると、七方向から道が集まる交差点にあります。いろいろな場所からくるであろう厄病や、悪霊を防ぎたいという思いが、この目立つ交差点に七鬼神社を建てさせたのでしょう。

    Photo_2ちなみにこちらが、「吉見のむかし話」の66ページに出ていた七鬼の名前です。仏教経典に出てくる名前のようです。

    道の両端に柱を立て、縄を張って外と内の「結界」とすることは、のちに鳥居となったという説があります。そういえば、鳥居にしめ縄を張ることが多いですね。私は蛇を模したものと思っていましたが、もしかしてこの防鬼(ふせぎ)の行事の縄のなごり?

    またアラハバキや門客人神社が鳥居の脇や、境内の出入り口付近に多く置かれている事実がありますし、アラハバキは塞の神であるという説があります。鬼とアラハバキには、なんらかのつながりがあるような気がします。

    20018年6月1日追記:

    父と地元上尾の「講」について話していたときに、上尾市の本町(ほんちょう)には「防鬼(ふせぎ)」の風習が残っていることを聞かされた。上尾市本町は、向原、二ツ宮、東町、上町、と町の四隅で接していて、その接している四か所に四本柱を立て、上部を縄で結び、防鬼(ふせぎ)とし、外からの悪疫を入れないようにしているのだと。

    また、同じ上尾市の西側、「川」という地区がありそこに川の大じめ(写真あり)の風習が残る。これもまさに「ふせぎ」なのであろう。

    2018年3月31日 (土)

    鬼無里(きなさ)伝説と日本書紀の一文

    前回の鬼無里伝説についてのブログ記事の最後に「見えてくるものがあります」などと強気に結んでしまったのですが、そのおかげで、なかなか文章が書けなくなってしまいました(とほほ)。

    やはり、そんな簡単には歴史は見えてこないですね。甘くはないです。

    私が思ったのは・・・、

    西暦600年代後半に三野王(みのおう)がヤマト朝廷のトップたる天武天皇の命令により信濃に遣わされ、鬼無里(当時の地名は水無瀬(みなせ)?)にも立寄り、中央集権の体制下への服従を強いた。

    目的は、税の取り立て地として中央政権に組み入れること。租庸調(そようちょう=米・労働力・特産物)の供給地として服従することを強いた。それへの反発が、地元勢力による抵抗となったものの、最後にはヤマト政権側に討ち取られた。その抵抗勢力は、荒ぶる悪しき「鬼」として物語に定着させられた・・・・。

    遷都の候補地、という伝承もあるが、現実的に畿内から山間の環境きびしい土地に都をうつすのはありえない。そうではなく、どれほどの税を取れるか、労働力を得られるかの算出を目的に、地図を作り、戸籍を整備し、人頭税の徴収をしやすくするための資料を作ったのではないか。

    鬼が退治された里も300年たった900年代なかば。租庸調の取り立てをもとに運営されてきた律令体制ではあったが、地元の国造ら勢力は力を得ると、中央への税の徴収、命令にやすやすとは応じなくなってきた。それどころか、地域の王のように振る舞うようになってきた。

    たたら製鉄の技術が広まると、地域の王は武器を手にすることができるようになった。武士団の発生である。

    そこに現れた貴女紅葉。京の文化と美しさ、聡明さを持つ彼女は、古代から中世へと移りつつある信濃のジャンヌダルクとして野武士団をまとめる象徴になっていった。

    時の冷泉天皇政権は、信濃統治の維持のため貴女紅葉をシンボルとする地域の野武士軍団を、平惟茂(たいらこれもち)に討ち取らせた。地元民に人気のあった貴女紅葉は、中央政権側によって、「鬼女」の紅葉とされ、物語として残されていった・・・・。

    どうでしょうか。私の直感による歴史です。

    文献による歴史を探ってみますと、日本書紀には三野王による信濃の地形調査のくだりがあります。

    下の文献は「書記集解(しょきしゅうげ)」をキャプチャーしたものです。

    Photo

    赤い線を引いたところの訳:

    「この日、三野王、小錦下(しょうきんげ。位階のひとつ)采女臣(うねめおみ)筑羅(つくら)等と、信濃に於ける地形をみる命令を受けた。まさにこの地を都とするか?」

    また少しあとのページには、

    Photo_2

    赤線をひいたところの訳:

    「壬辰(684年うるう4月)、三野王等、信濃の国の図を提出する」

    日本書紀はここの部分で嘘を書いてもメリットがないでしょうから、書いてあることを信じていい部分でしょう。三野王はたしかに信濃に来て、鬼無里に立ち寄ったことは大いにありえますね。

    このあたりのくだりについては、多くの研究が論文や本になっているし、ネット上にも多くの方がすでに書かれていました。

    それらによると、なぜ天武天皇は三野王らを信濃に遣わしたかについて、二つの説にだいたいまとめられました。

    一つは中央集権的に東国を押さえるための、また馬の産地としての信濃の重要性。

    もう一つは、百済救済のための唐・新羅連合軍との戦争(白村江の戦い)に負けた後、被侵略に備えるため、内陸部に副都を置く、というもの。

    わたしのように、租庸調という税や労働力・兵力の確保のために役人を派遣した、という説には出会いませんでした。

    しかし、ただ単に副都選定のための地形調査に来ただけだったら、地元民=「鬼」の抵抗は生まれるでしょうか。

    「紅葉伝説」、「一夜山伝説」は、もともと一つの物語と感じます。中央政権側への抵抗むなしく服従を強いられ、抵抗をしたものは「鬼」と名付けられ、都における物語となり、歌舞伎の題材ともなった。

    物語が地元に逆に伝わってきて、自分たちの先達が鬼と呼ばれていることがわかった。心の奥底では「鬼」を慕い続けていた地元民が、ぎりぎりの均衡点を見出した伝説として地元に残した、そういう物語でもあるように思います。

    2018年3月18日 (日)

    鬼無里(きなさ)の「一夜山の鬼伝説」

    さて、鬼無里をあとにして、ふたたび峠を越えて小川村を経由し、長野市の篠ノ井方面に向かいます。

    Photo

    峠道で鬼無里方向を振り返ると、左に一夜山(いちやさん)、右に雪をいだいた戸隠山(とがくしやま)が見事です。この一夜山にも鬼伝説があります。前回の記事で書きました鬼無里観光振興会のパンフレットに載っていましたので、引用します。

    Photo_18(挿絵は鬼無里観光振興会のパンフレットより)

    昔むかし、天武天皇は遷都(せんと)を計画され、その候補地として信濃に遷都にふさわしい地があるかを探るため、三野王(みのおう)、采女筑羅(うねめつくら)らを信濃に遣わしました。(注:684年2月28日、信濃の地形を見るよう命令を受け4月11日提出したと日本書紀などを参照したwikipediaにあった)

    使者は信濃の各地を巡視して、候補地を探し、水内の水無瀬(みなせ)こそ都にふさわしい地相であるとの結論を得ました。

    そこでさっそくこの地の地図を作り、天皇に報告しました。

    これを知ったこの地に住む鬼たちは、大いにあわて、

    「この静かなところに都なんぞ出来たら、俺たちの住むところがなくなってしまう」

    「都が出来ぬように邪魔してしまえ」

    と、すぐさま一夜で里の真ん中に大きな山を築いてしまいました。

    これでは遷都はできません。怒った天皇は阿倍比羅夫(あべひらふ)に命じて鬼たちを退治させてしまいました。

    このときから、この水無瀬(みなせ)の地に鬼はいなくなったので、人々はこの地を鬼無里と、また真ん中に出来た山を一夜山(いちやさん)と呼ぶようになりました。

    以上引用終わり

    さて、鬼無里を出る直前、二条のあたりの畑を電動車いすの90才くらいの老女の世話をしながら歩く60代くらいの女性に声をかけました。

    「東京はひがしきょうと読むのですか?ひがしのきょう、と読むのですか?」

    まあ、つまらない質問になってしまいましたが、裾花川(すそはながわ)にかかる橋の欄干に、「東の京、西の京」と書いてあったから、「の」が入るのかな?入らないのかな?と思ったからです。

    「ひがしきょうですよ」

    と返事をいただきました。

    しばらく、地元のお話を聞かせていただきました。

    「加茂神社の北の先には加茂川も流れている。神社の南側が一条で、北に向かって五条まである。西京に春日神社がある。京都に由緒ある名前が多くつけられている」

     

    「鬼女紅葉は、最初は貴人さんのほうの貴女だった。正妻ではないから京都から追いやられた。病気を治したりいろいろと教えてくれて慕われていた」

     

    「それが、いつのころからか鬼のほうの鬼女で言われるようになった。」

     

    「戸隠の山も関係しているんですよ」

    もっと話を聞きたかったけど、待っている電動車いすの老女が、ブップーと音を鳴らして、早く行こうよと催促。

    「ありがとうございます。勉強になりました」

    と、話を切り上げました。

    戸隠の山の話は、紅葉が兵を集めて武士団となったことの話かと思います。

    さて今回の「一夜山の鬼伝説」と、地元の女性から聞いた貴女の話、前回記事の「鬼女紅葉伝説」、そして加茂神社に伝わる京都から派遣された役人、「三野王の伝承」。

    これらを合わせると、それなりに見えてくるものがあるなと思います。

    鬼女紅葉(きじょもみじ)伝説と鬼無里(きなさ)村

    2年ほど前から、長野方面の峠道を車で走りに行ったとき、鬼無里(きなさ)という地名がとても気になっていました。

    最初は読めなかった。「きむさと」、とか「きむり」、かなと思っていたら、「きなさ」でした。

    鬼の無い里か。

    うーむ。ということは、「鬼」というのはふつうは「いる」ものなのか??それが特別にいないところだから、鬼の無い里とあえて言うのか??鬼がいないことがそんなにすごいことなのか?

    いろいろ想像しながらも、アラハバキだの氷川だの、まだ記事にはしていないけど縄文火焔土器だの、古代の瓦、だの私の興味は方々に吹っ飛ぶので、鬼無里はそのままにしていました。

    が、ついこないだ鬼無里を通り過ぎて、篠ノ井布施というところで、「荒神堂」という案内板を見たとき、ビビビと来るものがあり、もう一度行くことにしました。アラハバキという概念のヒントとして「鬼」に注目する価値があるように感じてきたのです。

    Photo長野市篠ノ井からアルプスの景観が売りの小川村を経由して峠を下りていくと、この写真のような風景が出てきます。

    真正面の円錐形の山が一夜山。一夜山から右に連なる絶壁が戸隠(とがくし)山。戸隠そばが有名ですね。写真の左のふもとのあたりが鬼無里地区です。

    Photo_2名物おやきなどが食べられる鬼無里地区の中心部から西に4キロほど車を走らせ右に入ると、そこが鬼女紅葉伝説の里になります。右に曲がってすぐに駐車場があります。この写真の道は駐車場から坂道を上がって行った最初の交差点で、二条といいます。

    Photo_3二条の通りを行くと、左側に「東京公民館」がありました。「とうきょう」公民館ではありません。「ひがしきょう」公民館です。ここでは京都風の読み方をするのです。

    Photo_4二条の通りのつきあたりに加茂神社がありました。


    Photo_5加茂神社の由緒書き。天武天皇の命令によりこの地を検分に訪れた役人である三野王(みのおう)が名付けた神社とあります。西暦683年のことのようです。(写真はクリックすると大きくなります)

    名付けた、ということはもともとあった神社、あるいは祠、あるいは巨木・・・、など地元民があがめていた対象を包摂し、加茂神社としたのかもしれません。

    ご祭神は、諏訪に近い長野らしく、タケミカヅチ、タケミナカタの二柱、そして初めて聞きますが、天思兼命(アメノオモイカネのみこと)の三柱でした。

    Photo_6加茂神社の拝殿と本殿が少し見えます。本殿の背後には杉の巨木もあります。左端の杉の下に木札が立っていて、石がありました。

    Photo_7この石の表面に「三」の字が刻まれています。木札には、「此の三の字と認る建石は、三野王 小錦 御勅在所の古蹟と伝えられる」と書かれていました。小錦(しょうきん)というのは役人の位階のひとつです。三野王の部下である采女臣筑羅(うねめおみ つくら)と思われます。

    このあたりに京都から派遣された役人である三野王の館があり、馬繋ぎ場に三の字を刻んだ大石を置いた、という伝承があるようです。

    Photo_8加茂神社の鳥居の向かい側の家の蔵の壁面に女性の面が取り付けてありました。これは珍しい。いったいなぜ?

    Photo_9二条から北へむかって三条、四条、五条と歩き、牛平というところで裾花川を渡ってさらに北へ歩くと内裏屋敷跡が見えてきました。

    Photo_10天暦(てんりゃく)年間、京からこの地に流された官女紅葉のため村人達が立てた屋敷、と書かれていました。のちに鬼女とよばれることになる紅葉の住んでいた場所のようです。

    Photo_16付近の観光案内図。先にこれが見たかった。一瞬迷子になりましたので。

    Photo_13こちらは官女ではなく、鬼女紅葉、となっています。供養塔です。

    Photo_12雪の上の紅葉。

    Photo_14さて、鬼女紅葉伝説です。この写真は現地にあった文面です。すこし長いので鬼無里観光振興会の出しているパンフレットから、鬼女紅葉伝説を引用します。

    その昔、会津の伴笹丸・菊世夫婦は第六天の魔王に祈り、娘呉葉(くれは)を授かりました(現地の文面によれば承平7年、937年秋)。娘が才色備えた美しい女性に成長したとき、一家は都に上って小店を開き、呉葉は紅葉(もみじ)と名を改めて琴の指南を始めました。

    ある日、紅葉の琴の音に足を止めた源経基(みなもとつねもと)公の御台所は、紅葉を屋敷に召して、侍女といたしました(現地の文面によれば天暦7年、953年)。

    紅葉の美しさは経基公の目にも止まり、経基公は紅葉を召して夜を共にしました。

    経基公の子を宿した紅葉は公の寵愛を独り占めにしたいと思うようになり、邪法を使い御台所を呪い殺そうと謀りましたが、露見してしまい、紅葉は捕らえられ信濃の戸隠(とがくし)へ流されてしまいました。

    信濃に至り、川をさかのぼると水無瀬(みなせ)という山里に出ました。

    「われは都の者。御台所に嫉妬で追放の憂き目にあいなった」と語る麗人に純朴な里人は哀れみ、内裏屋敷を建てて住まわせました。

    紅葉は喜び、里人が病に苦しむと売らないや加持祈祷で治してあげたのでした。

    紅葉は付近の里に、東京、西京、二条、三条、などの名をつけて都をしのんでいましたが、月満ちて玉のような男の子を産むと、その子を一目経基公に見せたいと思うようになり、兵を集め力づくでも都へ上がろうと考えました。

    里人には「経基公より迎えが来たので都へ戻ります」と言い置き、戸隠荒倉山の岩屋に移ると、戸隠山中の山賊を配下とし、村々を襲い軍資金を集めました。

    そのうわさが冷泉天皇の知るところとなり、天皇は平惟茂(たいらこれもち)に、紅葉征伐を命じました。

    平惟茂は山賊どもを打ち破り、紅葉の岩屋へ攻め寄せますが、紅葉は妖術(ようじゅつ)を使い、惟茂軍を道に迷わせます。

    妖術を破るには神仏の力にすがるしかないと別所温泉北向き観音堂にこもり、満願の日に一振りの宝剣をさずかりました。

    意気上がる惟茂(これもち)軍を紅葉はまたもや妖術で退けようとしましたが、宝剣の前に術が効きません。やむなく雲に乗って逃げようとする紅葉に、惟茂は宝剣を弓につがえて放つと、紅葉の胸に刺さり、地面に落ち息絶えました。

    享年三十三歳と伝わります(現地の文面によれば安和2年 969年10月25日)。

    人々はこれより水無瀬の里を、鬼のいない里、鬼無里と言うようになりました。

    以上が鬼女紅葉伝説です。このパンフレットは県道406号沿いの道の駅的な「そば処 鬼無里」でもらいました。メニューにはないけど、おそばにおやきを一個つけるのがおすすめです。

    伝説に出てくる六天の魔王、というのを調べたところ、一言で言うと、「仏法を滅ぼそうとする魔王」、ということのようです。仏教の世界における「鬼」ということですね。つまりは鬼に祈って生まれた鬼女紅葉、という伝説の設定です。

    また源経基は清和源氏初代で(961年に45歳で死去)、武蔵の国の役人として赴任していた時期もあり、検注(地元有力者からの賄賂が裏の目的)を拒否する地元豪族、武蔵武芝(むさしたけしば)を襲って平将門の怒りを買ったこともあったようです。

    Photo_15帰り道、裾花川沿いの棚田の写真です。河岸段丘で平らなところがありそこが田んぼになっていました。

    次回へ続く

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